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2012年6月26日読了 戦略とは追いかける指標を探す事 正しい指標を見つけなくてはならない。 日本人は今あるものを改善するのは得意だが、自分でルールを作るのが苦手 成功してもその本質を理解しなくては、成功を再現する事ができない。 戦略がないと意味のない勝利になってしまう。 現場を良く見る。 ブレイクスルーをおこすには ポイントとなる指標を見つける。 その指標を無効化する。 新しい指標を作る。 ダブルループ学習 やり方を改善するプラス根本が間違っていないかを疑う リーダーは自分の限界をチームの限界にしない。 現場の意見を良く聞く 成果が上がる評価制度をつくる
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番号 FJ11036 名前 毒島冴子の本質 読み ぶすじまさえこのほんしつ Lv 4 スター 種別 ストラテジー 【これだ!これなのだ!たまらん! 濡れるッ(・強調:これだ これなのだ)】○自分の山札を見て★か☆のないユニットを2枚まで選び、捨札に置く。その山札をシャッフルする。○夢(プランゾーンからプレイできる) ブロック 富士見書房 作品 学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD レアリティ U 12/2先行公開カード
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基本的人権の本質 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 この項目についての意見 名前 コメント
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(貸借対照表の本質) 一 貸借対照表は、企業の財政状態を明らかにするため、貸借対照表日におけるすべての資産、負債及び資本を記載し、株主、債権者その他の利害関係者にこれを正しく表示するものでなければならない。ただし、正規の簿記の原則に従って処理された場合に生じた簿外資産及び簿外負債は貸借対照表の記載外におくことができる。(注1) A 資産、負債及び資本は、適当な区分、配列、分類及び評価の基準に従って記載しなければならない。 B 資産、負債及び資本は総額によって記載することを原則とし、資産の項目と負債又は資本の項目とを相殺することによって、その全部又は一部を貸借対照表から除去してはならない。 C 受取手形の割引高又は裏書譲渡高、保証債務等の偶発債務、債務の担保に供している資産、発行済株式一株当たり当期純利益及び同一株当たり純資産額等企業の財務内容を判断するために重要な事項は、貸借対照表に注記しなければならない。 D 将来の期間に影響する特定の費用は、次期以降の期間に配分して処理するため、経過的に貸借対照表の資産の部に記載することができる。(注15) E 貸借対照表の資産の合計金額は、負債と資本の合計金額に一致しなければならない。
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目次 1.女性なるものの本質 2.男女の違い 3.女子教育のあり方 4.娘らしさとは何か 5.結婚の準備 6.妻としての生き方 7.母としての生き方 8.女性の幸福とは (1988年5月9日の霊示) 1.女性なるものの本質 谷口雅春です。さて、第三章では、女性について考えてみたいと思います。と言いますのも、世に宗教書は数多くあるわけですが、女性の生き方、女性の幸福に触れたものは、そう多くはありません。その理由は、法を説く方、宗教を興(おこ)す方というのはたいていの場合男性であって、女性についての法があまり得意ではない。女性とは何かを、あまりご存知ではない。まあそうしたことによって、女性のことをあまり書けなかった、話せなかった、というのが真相であろうと思う。 私は長い人生において、さまざまな女性というものの生き方、それを見てきました。もちろん私自身も家庭生活を送っておりましたが、それ以外に、会員、信徒諸君の生き方、家庭生活、また女性の方々の相談に接するにつけていろいろと、思い巡らしたのであります。そうすることによって、女性なるものの本質とは何かということが、おぼろげながら見えてきたわけであります。 それをいろんな形で世に問うたこともあります。書物にしたことも、話をしたこともありますが、今、こうしてあの世の世界に還ってから、私が考えていた女性論、これに対する再構成、再度の考え、これを世に問うてみたいと、このように思うのです。 まあ結局のところ、女性というものをどういうふうに位置づけて、男性とのその存在の意味を対比させるか、ここが問題だと思います。しかし私は根本において、女性なるものは、男性なるものとは違った面を含んでいる、ということを指摘しておきたいと思います。男女がもともと同じものであるならば、そうした二つの違ったものとして現れる理由がないのです。違ったものとして現れたということは、違った存在として地上にある理由がある。そういうことを言い得るのではないか。そのように私は思います。 すなわち、女性なるものの本質の中には、神の隠された意図が何かあるはずである。私はそれを探ってみたいと思うのです。 結局それは、男性にない優美なる面、あるいは繁栄という面、それは産(う)めよ、増(ふ)やせよという意味ですが、その繁栄という面、あるいは世の中を落ち着かせ、調和に導く面、何らかのこうしたものがあるのではないか。そのように感じられるのであります。 これが主として女性なるもののひとつの特徴、ひとつの方向ではないのか。そういうふうに考えられるわけですが、もうひとつだけ言っておいてよいものとして、やはり女性というものは、体の構造からして男性とは違う。ここにひとつのものの見方、女性なるものの見方、これを考える余地があるということです。この点について、さらに話を続けていきたいと思います。 2.男女の違い さて、旧約聖書の中では、アダムとイヴの話がよく出てきています。神は塵(ちり)と言いますか、粘土と言ってもよいが、粘土のようなものをこね合わせて、男性の肉体の形をつくり、それに息を吹き込んで、それをアダムとされた。そうして、アダムの肋骨(ろっこつ)の一部をもとにしてイヴをつくった。まあこのようになっていますね。 こうしてみると、男女の発生原因を、こうした旧約聖書のレベルでとらえるとするならば、男性ができて、しかる後に女性というものが発生した。まあこのようになっていると思います。 さて、この話を聞くとするならば、女性の大部分は不満に思われるかもしれぬ。アダムの肋骨でできた。それでは女性というものは、まるで男性に隷属するようなものではないのか。そうしたことが果たして耐えられるか。私たち女性は、女性としての毅然(きぜん)とした態度、尊厳というものがある。なのに男性の隷属物、付属物のように言われて、黙っておれるわけがない。こういうふうに言われる方もいらっしゃるでしょう。もちろんお説ごもっともであります。 ただこれは、霊界の世界、我らが世界というところから見ると、確かにイデア、イデーと言ってもよい、理念と言ってもよいが、そうしたものとしてはまず男性の理念があったということは事実のようです。動きやすい人間として男性の理念がまずあって、それが地上に降りた。しかるべき後に、この補助をさせんとして女性のイデアが地上に降りた。こうしたことを物語っているのだろうと思う。 ただ、霊界通信の中でも高橋信次などが最近よく言っているように、私たちが地球に来るには他の星から円盤に乗ってきた、異星人として渡ってきた、こういう説を言っているようであるが、そうしたことも一部にあったことは事実です。まあ他の星から来たという事実もありました。 もちろんこれは、現在の日本人あるいは地球人であっても、他の星から見れば宇宙人であるから、地球人が他の星に飛び立てば、これは宇宙人がやってくるのと同じ、まあそういう論理展開であって、この全宇宙の中では進化速度はもちろん何億年もずれていますから、そうした他の星から地球に来るということもありました。 ただ、地球というところを磁場として、ここを生活圏として、新たな人間の創造がされたことも事実です。その人間の創造がなされるにあたって、まず男の理念というものがあって、神はこれを地上に顕現されようとした。その後に、女性の理念というもの、これが地上に降りた。こういうことを言っているのです。 これは、根本的なところに遡(さかのぼ)るのであって、結局、神は仕事というものだけを観点として考えた時に、男性だけであっても十分であると思われたわけだけれども、しかしその男性が地上に住んでいるうちに、男性同士で、仕事だけという生活をしていると、どこか心に虚(むな)しさが漂う。淋しさが漂う。大いなる豊かさがない。発展、繁栄がない。こうしたことに気づかれて、ここに女性なるものを投入された。このように解釈されるのであります。 まあこう言えば女性闘士たちは文句を言うかも知れぬが、女性の目的の中には、どうしても補助者としての目的があることは事実であり、これは人類の歴史、あるいは現在の男女のあり方を見ても、そうした面があることは事実であろうと思う。ただこれが、単に補助者として隷属的地位にあるのではなくて、共に育み合いながら家庭をつくり、そして人類に対して子孫維持という、ひとつの義務を負い、こうして新たなる繁栄をつくっていく。そうした目的があると言えましょう。 そして、その目的が違うということは、男女の肉体の違いにも現れていると思う。男女の肉体の違いは、いかんともしがたいものがある。女性の肉体には、あらかじめ子供というものを産み育てるということを目的としているということが、はっきりと刻印されていると思う。それは、女性の肉体そのものに子供を育てるという役割が、その外見として現れているということだ。 こうしたことは非常に生物学的なものであるけれども、生物学的なるものは、その根本において神の意志を宿していると考えるならば、この男女の違いというものを一概に無視することはできない。私はそのように思います。それは、神の意志を無視することになると思うからです。 3.女子教育のあり方 私は、男女は本質的に違うものである、その目的において異なる面があるということを強調いたしました。そうであるならば、有り得(う)べき女子教育とはいかなるものでしょうか。女性をどのように教育していけばよいのでしょうか。この点について、明確な見解を出しておく必要があると思うのです。 昔から「男女七才にして席を同じゅうせず」という言葉があります。男女、異性というものを意識することによって、打ち込めない、学業に打ち込めない。そうしたことを避けたということでもありましょう。大人の知恵と言いましょうか。十分成熟してから異性というものは見つめればよいのであって、あまりに幼い時、若いうちに異性を知るということの危険性を、この教訓は物語っているのではないかと思います。これは確かにその通りであります。 現在、男女共学ということでやっています。これは男性が男性のみ、女性が女性のみを知るということではなくて、異性を知るということで人生観が広がることも事実。ただこうした男女混合の学校教育において、ませた生徒たちが数多くできてきて、そして学業に専念できないような状況が発生しているということも、事実かと思います。 さてこれをどうするか。単に男子、女子というものを分ければよいのか。まあこれは、戦前への復帰というような言葉で言われることもあるでしょう。それとも、男女混合のままで有り得べき姿があるのかどうか。そうしたことでしょう。 また、大学教育のあり方というものもあるでしょう。戦前は女性で大学へ行くというようなことは、ほとんど皆無に近かったけれども、戦後は女性で大学へ行く者も増えてきた。今後の見通しとして考えるならば、アメリカの女性がそうであるように、女性でもどんどんと大学を卒業して、そして社会的エリートになっていく道が、これがふさわしいのか。やはり女性は女性であって、そうした道を選ばない方がよいのか、こうした考えですね。 昔の日本人から見れば、学のある女性というものは縁遠かった。なぜ縁遠いかというと、その才気走ったものの考え方が家庭生活の円滑さを生まない。すなわち舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)と対立する。そして自分の権利を主張する。我(が)を押し出す。こうしたところがあります。まあこれが、昔家の中に嫁に来るという意味で、非常に障害になったということですね。 現在でももちろん、女性に学があるということは大変難しい問題であろうと思います。現代でも女性に学があるということは、たいていの場合は職業婦人への道を歩むということとなり、学があって職業婦人の道を歩んだ女性の大半が独身生活を送るという、そういう現象が出ていると思います。これはひとつの社会現象であると思います。女性であるということで、それでもって自己実現していくためには、独身を通さねばなかなかうまくゆかん。こうしたことがあるわけです。 さてこの問題をどう考えるかということですね。ただ私は思うのですが、体力の測定をして男性に優っている女性が少ないように、やはり学力ないし知力で測っても、男性に優っている女性というものは数少ないということは、データーとして明らかに出ていると思います。 したがって、極度に優れた知性を持つ女性というものは、それ自体、第二の性という女性ではなくて、第三の性であるという面があると思います。すなわち女性なるものから多少離れている。こうしたことは事実として言えると思うし、この第三の性は、人類の大勢(たいせい)にはおそらくならないと思います。 ずば抜けた知性を持ち、学のある女性というのは、やはり一部の例外に留まるであろうし、今後も多くは出てこないであろう。すなわち、知的に優れた集団があるとするならば、男性が九なら、女性は一ぐらいに留まるであろう。そしてその比率は、男女同数ということにはおそらくなっていかないであろう。このように思います。 それはね、結局、こういうことなんです。やはり女性という理念の中に補助者としての理念があり、補助者であるという理念の上に、肉体も男性よりやや小さくなり、力もおち、そして知力も少しおちる。これが種族が保存されていくための方便として、あるいは知恵としてあるんです。 したがって、筋肉的にも男性より優れ、知力的にも男性より優れる女性というものの存在は、やはり異質であると言わざるを得ません。したがって、そうした異質な女性、第三の性としての異質な女性の存在は、この別なる生き方というものを、さらに探究しなければいけないでしょう。それは非常に厳しい試練であるということも、事実であろうと思います。 ただ私は思うのですが、こうした異質な女性、女子教育を受けて、そして傑出した人であっても、やはり地上に降りた人間として見たならば、女性としての面が多いことは事実であるから、この面を、この部分を完全に押し殺していく方向で歩んだ時に、それはひとつの悲劇になるということは事実だと思う。才能のみ伸びて、他の者と不調和な生き方をしていては、やはり女性なるものがどこかで死んでいく。こうしたことはあると思う。 したがって、女子教育のあり方という題に対する私の考えをあげるとするならば、やはり男女共通の部分もあってもよいが、やはり別なところがあってよいのではないか。女性は女性として、別な教えを受ける必要があるのではないかということが、私の結論であります。 すなわち、もう少し情操(じょうそう)教育というものに力を注ぐべきではないか。このように思います。情操教育、その心のあり方、これの教育ですね。女性というものは、特に優しい心を持つということが非常に大事です。大切です。この部分を鍛えておくということは、将来にとって大変な投資になるわけです。 またもうひとつ考えておきたいことは、宗教心ですね、これの養成ということです。女性は特に、宗教心というものを学んでおく必要がある。できれば女子教育の中に、宗教教育を取り入れたい。私はそのように思います。 なぜならば、男性よりも女性の方が信ずる力が強いからなのです。男性はどちらかというと、知性的、理性的にものごとを考えていきますが、女性というものは、悟性的、感性的にとらえていく傾向が多いようです。すなわち女性のものごとの認識の方法は、必ずしも理詰めではないのです。理詰めで考える女性もいますが、これはあくまでも例外の女性であって、たいていの女性は感性でものごとを考えていきます。 あるいは信ずるというような行為、信ずるという行為は何かというと、これは一躍跳入(いちやくちょうにゅう)で実相を把握するという考えです。一躍、実相に参入する。これが信ずるという行為です。女性はこの部分が非常にやりやすいのです。なぜやりやすいかと言うと、まあその本質においてやや単純なところがあるということは事実でありますが、論理を無視して結論に飛ぶというのは、これは女性の特徴でもあります。 これはなぜかというと、自分自身の思考力でもって筋道を辿っていくという過程が、どうしても女性になじまないのです。やはり、女性は寄りかかるもを欲している。その寄りかかるものが夫であったり、あるいは神であったりするのです。理屈を抜きにして寄りかかるものが欲しい。これが、女性の信仰心が強いことの根本の理由です。 信ずるということが非常に強い女性。ならば、やはり、女子教育の中に信仰というものを打ち出していくべきではないのか。そして家庭というものは、ひとつの信仰を生むための寺院であり、神社、仏閣でもある。そのような考え方から見れば、女性がその家庭における宗教の核になっていくのがよいのでないのか。そのための基礎として、女子教育の中に宗教教育を入れていくべきではないのか。まあ私はそのように思うわけです。 4.娘らしさとは何か 女子教育のあり方を話しましたが、「娘らしさとは何か」ということについても、考えておきたいと思います。 私は、女性というものは本質的に恥じらいというものを持っていなければ、嘘だと思っています。何もかも外に打ち出していく、見せていくということがよいのではなくて、隠すもの、この慎(つつま)しやかな部分、こうしたところに女性なるものの本質が、実はあるのではないのか。このように思います。 古来より女性というのは、控え目であるということ、これが美徳とされてきました。これは女性でも男性でもそうですが、肉体というものを見ればよいのです。男性というものは、肉体を外に露(あらわ)にすることにそれはどの羞恥(しゅうち)を感じない。しかし女性というものは、それを恥ずかしいと感じるというふうに言われています。 なぜかというと、この恥ずかしいという感情が、実は女性なる美しさ、女性的なる美しさに相通じているからです。人間心理というものは実に微妙であり、実によくできていると思いますが、隠したがるものは見たがる、こういう心理があるのであります。すなわち、真理というものは非常に女性的なるもので、隠れているものですが、隠れているとそれを掘り起こしたくなる、こうしたことが真実であるのです。 このように、女性の本質の中にはどうやら密(ひそ)やかなるもの、公(おおやけ)にできないもの、陰(いん)なるもの、これがあるということ。これは否めないと思います。 こうしてみると娘として生きた時、娘というのはまあ十六才以降でしょうが、十六才から二十代前半ぐらいが娘時代とすると、娘らしさというものを考えた時に、私は、このやはり密(ひそ)やかなる部分、秘めやかなる部分というものを無視することはできない。これは、神の与えられたるおおいなる英知である。男性というものに対し自分を守ると同時に、自分を美しく見せ、魅力的に見せるということが、この密やかなる部分に出てくるのだと思います。 したがって、恥じらいということのない娘というものは、これは女性という定義から外(はず)れているということになりましょう。現代女性の乱れの多くは、この恥じらいというものを忘れたというところにあると思います。恥じらいというものを忘れて、唯物的になり、そして中学生あたりから男女の交わりを覚えたり、いろんなことをしておりますが、これはいちばん大切な女性の女性的なるもの、恥じらいという感情、密(みつ)なるものを愛する感情、こうした密(ひそ)やかなる感情の優位というものが、失われたということを意味していると思います。 したがって、私は情操教育ということを先ほど述べましたが、その娘を持つ両親は、恥じらいということ、慎(つつま)しやかさということの大切さをやはり教えていく必要があると思います。それを失った時に、これは女性なるものからの転落であるということを、知らなくてはなりません。 単なる性欲のままに十代の前半や十代の後半に、深くものごとを考えずに男性との接触だけを望み、そしてそれに喜びを感じるような女性となっていっては、これは女性的なるものから、獣的(じゅうてき)なるもの、動物的なるものへの転落を意味しているのです。これは魂において、確かなことであります。 したがって、これからの女性の躾(しつけ)、娘の躾という観点から言えば、恥じらいということの大切さ、恥ずかしいという感情があなた方が地獄に堕(お)ちるのを畜生道に堕ちるのを防いでいるのだという、そうした教育を十分にしていく必要があると思います。 5.結婚の準備 さて、「結婚の準備」ということについて、話をしていきたいと思います。結婚前の女性の心がけということでもありましょう。私はこれを主に三点に要約して、話をしておきたいと思います。 第一は、肉体的、外面的な部分でありますが、結婚の準備期にある娘たちは、やはり、清潔な身体を保つという心がけを大事にして下さい。不潔な女性というものは非常に男性をがっかりさせますし、男性の夢を奪ってしまうことになります。 男性は女性に対して一種の夢を持っています。憧(あこが)れを持っています。この憧れを、そう簡単に失わせるのではなくて、できるだけ長く持たせるということが、実は結婚の秘訣となります。 その準備としての考えは、女性はやはりいつもきれい好きでなければいけない、清潔好きでなければいけない、ということです。着る物、身に付ける物から始まって、やはり入浴、シャワー、こうしたものをよく浴びて、いつも小ざっぱりとした感じでいるということ。こういう清潔好きであるということが、まず嫁入り準備の最初の心がけであると、私は思います。 二番目の準備として大事なことは、これは、尽くすという考え方の再確認であります。宝にされ、大事にされてきた娘というものは、えてして結婚でつまずくことになります。それは今までは親から、ちやほやされたり、兄弟や親戚からちやほやされてきたものが、今後は一人になり、そして自分は一人の男性に尽くしていく。こういう人生を送るからです。ちやほやされるということから、今度は人に対して尽くしていくということを女性は学んでいくことになります。したがって献身ということの大切さ、尽くすということの大切さ、これを心構えとして知っていく必要があると思います。 三番目の結婚の準備としては、やはりこれは、常に感謝ということを忘れない、こういう考え方ですね。感謝という気持を忘れない。親に対して、近所の人に対して、あるいは夫に対して、また夫の両親に対して感謝の気持を忘れない。これが大事であろうと思います。 この感謝の気持を忘れると大変なことになります。自分はたとえば次男さんと結婚したのであって、その両親と結婚したわけではないと、まあこういうことが最近の若い女性の間では、非常によく言われていると思いますが、確かにそれはその通りであって、親と結婚したわけではないけれども、ただここにひとつの間違い、陥りやすい間違いがあると思います。 それはね、人間というものは、自分一人だけで大きくなることはできないということですし、自分一人だけの仕事で世の中を渡っていくこともできないということです。人間が生きていくというのは、その中で、いろんな人の目に見えない力を受けて現在があるということなのです。だから自分の伴侶が素晴らしい人であるならば、その両親もやはり素晴らしい方であったのです。自分の伴侶がよくない人であれば、両親の中にも、よくないものがおそらくあったのです。 したがって本質的にいうならば、自分の伴侶だけを愛して両親を愛さないというのは、これはおかしいのであります。自分の伴侶の中に見出(みいだ)した良き性格、良き性質というものは、実は両親から遺伝的に受け継ぎ、環境的にも受け継ぎ、またその教育の中でも受け継いできたものであるはずなのです。したがって本当に自分の伴侶を愛しているならば、その両親、兄弟、こうした者をも、愛する気持が出なければ嘘ですし、出なければ、これは何かに間違いがあると考えてよいと思います。 それは、ひとつには感謝ということですね。感謝ということが大事だということです。畑で野菜を作っても、それを自分の力で作ったと思う方もいらっしやるかもしれません。そういう方もいらっしゃいますが、真実は、そうではないと思います。それは土地の栄養分から来ているのであり、また雨が降ったということが、それが幸いになっているのであり、太陽の光が燦々(さんさん)と降り注いだということが、幸いになっているのです。自分のしたことは、もちろん畑を耕したり、あるいは雑草を抜いたりというようなことは、あったかもしれませんが、根本的なところは自分以外の力によるのです。 したがって自分の伴侶のみを愛して、伴侶の親戚、家族、こうしたものを愛さない方というのは、畑で作物を作った時に、自分の力で作ったというふうに思っているのではないのか。太陽や、雨とか土壌というものに対する、感謝を忘れているのではないのか。まあこうした観点で、もう一度振り返っていただきたいと思います。 私が言っていることは非常に大きな知恵であるので、どうか、現代女性の多くにこれを学んでいただきたいと思う。不思議なアメリカ的なものの考え方の中に真理はないということ。本当に自分の伴侶を愛するならば、その伴侶をつくり、育ててきた人たちへの感謝の念が起きなければ嘘だということ。これを私は言っておきたいと思います。 6.妻としての生き方 さて、いよいよ結婚の準備が終わり、妻となるわけです。結婚をするわけですが、この妻としての生き方の中でも、私はいくつか注意事項を言っておきたいと思います。 それは第一には、夫婦で意見が分かれた時には、まず原則として男性の意見、夫の意見を立てなさい。夫は立てなければ一家の中心とはならないのです。男性を立たせるというのは、これは女性の非常に大きな義務なのです。したがって、男性を立てる女性、それが賢い妻であります。 どのようにして男性を立てるか。つまり仕事のやる気を起こさせるか。一家の大黒柱としてやる気を起こさせるか。これが大事です。ところが現代の女性を見ると、夫を腐(くさ)してばかりいるのが、あっちにもこっちにもいます。給料の稼ぎが少ないとか、家庭サービスが少ないとか、まあさまざまなことを言っておりますが、どうも立てるということを知らんようです。これは知恵であるということを、知らねばならん。 夫は経済生活の中心であります。機嫌(きげん)よく働いてもらうということが、これが夫の財布を握っている女性の知恵であります。まず男性は立てなさい。妻としてやるべきことは男性を立てること。その方法を考えることです。 妻としての第二番目は、やはり家庭生活の中での夫婦の生活、性生活というものがあるでしょう。これに対しても、知恵を巡らさねばならんということであります。やはり魅力的な女性であり続けるように努力をする。これは大事だと思います。夫は何がくたびれると言っても、会社で遅くまで働いて家に帰って来て見る、妻のふしだらな姿、これにはいちばんがっかりさせられるのです。 自分が遅く帰って来ても、起きて待っている妻というのを見ると非常に嬉しいものですが、自分が帰って来ると、もう家の中は荒れ放題、後片づけもせず、食べちらかして、そしてグーグーと寝ている妻、こういうのを見ると非常にがっかりとしてしまいます。やはりふしだらであるということはいけません。いつも身だしなみを整え、そして隙(すき)をつくらないように、ふしだらな姿を夫に決して見せないように。朝は早く起き、夜も夫が寝るのを待って寝るような、そうした妻でなければいけない。この辺を十分心がけなさい。 夫を立てるということ、ふしだらなところを決して見せないということ。言葉を換えれば魅力的であり続けるということ。これが大事です。 三番目に言うとするならば、妻というものは経済観念が発達していなければいけないと思います。経済観念が発達している妻というのは、それだけで非常に魅力的であります。金使いが荒い人はいけない。少ない収入の中でどうやってやりくりをするか。このやりくりをする能力というものも、ひとつの能力であります。 こうしたやりくり上手の妻をもった夫というものは、たいてい、出世していきます。ところがやりくりが下手な妻をもらうと、夫は大変苦しい人生を送っていくことになります。したがって、やりくり上手であるということ、経済観念が発達しているということ、これは大変大事であります。 まあこれが妻としての心構えであるので、よく学んでおいてほしいと思います。 7.母としての生き方 さてでは、やがて子供ができてくるわけですが、「母としての生き方」、この要諦(ようてい)と言いますか、大事な点は、いったいどこにあるのでしょうか。私は、三つほど、これもあげておきたいと思う。 第一点は、子供というものの教育に関しては、できるだけ、その自助・努力を促(うなが)すという方針を持っておくことが大事です。何もかもかかりきりにするのではなくて、自助・努力、自分で何かができる、やっていけるような、そうした子供にしていくということが大事だと思います。この自助・努力の精神というものを、根本的に植えつけていくということが大事であろうと思います。 二番目は、まあ母として子育てに精力をとられるようになっていくと、どうしても夫の世話というのが見失われがちになっていきますね。子供ができて、夫が非常にしょんぼりとした淋しい顔をすることが多くなってきます。こうした夫は非常に家庭生活へ不満がたまり、やがて家に帰ってこなくなります。妻が子供の世話に追われて自分のことを構(かま)ってくれないというので、だいたい会社帰りに酒を飲みに行くようになり、また夜の女性らと歓談している方が楽しくなっていきます。それはお世辞を言ってくれるし、適当に相手にしてくれる、構ってくれるという、そういう点があるからですね。 したがって、母となってもできるだけ夫に関する注意というものを、忘れないようにしなければいけない。これが利口な女性の生き方です。 三番目としては、まあ子育ては、できるならば、やはり自分の手でやった方がいいということです。職業婦人なんかには人任せの人が非常に多いけれども、やはり自分の手で育てないと、子供というものはなかなか可愛くならんということだ。これは言っておこう。人任せでやった子供は可愛くない。これは真実だと思う。自分の手でやはり育てる。これが大事だ。なんとかして、大変でも自分の手で子供を育てるということを大事にして下さい。 これを忘れると、やがて子供が成人してきた時に、親の愛を省みない、そうした子供ができていきます。どこかに、幼少の時に十分に育ててくれなかった、ということが憎しみとなって返ってくることがあります。小さい時から、やはり親の愛というものを現実に受け入れるということが、子供がすくすくと育っていくための栄養分となるのです。人は、他人は面倒は見てくれるかもしれないけれど、愛を注いではくれません。この意味において、自分の手で育てるということが大事であろうと思います。 8.女性の幸福とは 以上、さまざまな形で女性論を展開してきましたが、最後に「女性の幸福」とはいったい何なのかということを、総括的に話をしておきたいと思います。 それは、私は思うのですが、やはり男性と競い合うというところに根本的に女性の幸福はない、ということだと思います。男性とは別に女性がつくられたということの中に、やはり女性は女性であることを楽しめ、女性であることの中に幸福を見出していけという、神の尊い知恵が光っているように思います。そして女性は女性としての幸福のみを追求するのではなく、女性としての役割を演じる中に、男性を伸ばし家庭を育む、おおいなる創造ということの喜びというものが与えられているように思います。 また家庭の中で、女性は全員、教育者としての使命を持っています。天才児をつくるということ。これは女性のおおいなる使命です。どんな子供であっても、成人するまで二十年かかります。これが人間として生まれたことのハンディです。天才児をつくっていく、家庭教育によって天才児をつくっていく。こうしたおおいなる創造の喜びを、私は一人でも多くの女性に味わっていただきたいと思います。 この天才児をつくる方法は、ひとつはやはり、言葉の創化力であろうと思います。良き褒(ほ)め言葉を使う。花びらのごとき褒め言葉を使って、その子を良い方向へ伸ばしていく。悪いところを責めるだけでなく。良いところをどんどんどんどん伸ばしていく。そして、その子が素晴らしい人間になるということを信じてやる。これが大事です。こうした方向において、女性の幸福は無限です。育てるということ。水をやり、肥やしをやり、光を与えてやるということ。これが女性の本質にあります。これが女性の幸福です。 こうした育むという素質。そして人類の子孫、繁栄ということに貢献している。また楽しい家庭をつくっていく。そして家庭の中に、信仰心というものを持っていく。宗教的な環境をつくっていく。これは、女性の大切な大切な仕事だと思います。でき得るならば、宗教的環境の中で子供たちに天才教育をやってほしい。私はそのように思います。 人を信じあう。世の中を善だと思う。善人の世界だと思う。そういう女性が増えてきたならば、子供たちもまたそう思うでしょう。親がいつも世の人たちが悪い、世の中が悪いと言っていれば、そうした子供が育つようになってくるでしょう。 どうか、そうした大いなる創造の場に生きているということを、また信仰の場に生き ているということを、こうしたことを忘れず、そしてうまずたゆまず努力していってほしい。そのように思います。私はそれを、女性に対する期待の言葉として、本章を終えたいと思います。
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原価計算基準 三 原価の本質 原価計算制度において、原価とは、経営における一定の給付にかかわらせて、把握された財貨又は用役(以下これを「財貨」という。)の消費を、貨幣価値的に表したものである。 (一) 原価は、経済価値の消費である。経営の活動は、一定の財貨を生産し販売することを目的とし、一定の財貨を作り出すために、必要な財貨すなわち経済価値を消費する過程である。原価とは、かかる経営過程における価値の消費を意味する。 (二) 原価は、経営において作り出された一定の給付に転嫁される価値であり、その給付にかかわらせて、把握されたものである。ここに給付とは、経営が作り出す財貨をいい、それは経営の最終給付のみでなく、中間的給付をも意味する。 (三) 原価は、経営目的に関連したものである。経営の目的は、一定の財貨を生産し販売することにあり、経営過程は、このための価値の消費と生成の過程である。原価は、かかる財貨の生産、販売に関して消費された経済価値であり、経営目的に関連しない価値の消費を含まない。財務活動は、財貨の生成および消費の過程たる経営過程以外の、資本の調達、返還、利益処分等の活動であり、したがってこれに関する費用たるいわゆる財務費用は、原則として原価を構成しない。 (四) 原価は、正常的なものである。原価は、正常な状態のもとにおける経営活動を前提として、把握された価値の消費であり、異常な状態を原因とする価値の減少を含まない。
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感情 【感情】 ■ 【笑いと差別】いじめている人間がなぜ笑うのか?これは僕が40年かけて出した結論です【岡田斗司夫/切り抜き】 サイコパスおじさん【岡田斗司夫 切り抜き】 元動画👇 岡田斗司夫 .
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NONMEMの本質的な特長 非線形混合効果モデルのフィッティングができるソフトは多数ある. その中で,NONMEM の特長は次の二点. PREDPP ライブラリによって,多彩なイベントに対応できるということ NM-TRAN によって変量効果に関する偏微分を解析的に行えるということ もっとも,後者に関しては最近の CPU パワーをもってすれば,偏微分を数値的に行ったとしてもそれほどのロス,誤差は出ないのではないか.検証していないけれど. 前者に関しては,他に代わるソフトがない.WinNONMIX も対応不十分である. したがって,PREDPP ライブラリの部分のみを借用して,フィッティング自体は他のソフトでできないだろうか,というアイディアが生まれる.例えば,S-Plus の nlme() 関数で PREDPP を使うことができれば,計算結果の整理もプロットも非常に楽になる.SAS であっても同じ.要は NONMEM というキャラクタベースのソフトでなければなんでもいいのだ. PREDPP は単に濃度計算エンジンという扱いである.統計的推定周りは他の(より使いやすい)ソフトを使いましょう,ということだ. 一応できているのだけれど,ドキュメントを用意する気になれないでいるので,まだ公開しない. 予告のみ.
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歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合はこちら 及びこちら をクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。
https://w.atwiki.jp/honsituwiki/pages/3.html
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